兵庫県の一級河川、加古川を上っていくと中流に闘竜灘があります。全国で鮎の解禁が一番早い5月1日ということで昔から広く知られている名所です。
その周辺に広がる播磨平野の中に加東市、西脇市、その上流には丹波市があります。播州毛鈎はこの地で育まれてきました。その歴史は古く、あらゆる文献が残っているようですが発祥を確定するものにはなかなか至らないようです。
その中でも播州へ釣針製造の技術を導入したのは、加東郡下久米村の小寺彦兵衛であったという説があります。明治政府が打ち出した産業奨励策により内国博覧会や水産博が開催されるようになり、これに彦兵衛の弟子ら多くの毛バリ師が出品し受賞するようになったことで、後世に名を残す名針が生み出されることになりました。これを機に播州における毛バリの生産は拡大され製品は多様化していったようです。
この明治から大正期に藤屋(屋号・針屋)金兵衛(多可郡蒲江村の人)の三代目に当る藤井荘吉という毛バリ師が卸商から釣針製造に乗り出していったとのこと、その弟子のひとりの小山利助が現小山毛鈎製作所の先々代に当ります。
この小山利助と同世代の毛バリ師の弟子たちが、昭和14年に播州釣針協同組合を結成して現在に至る礎を築き活躍してこられました。鮎のドブ釣りが全盛期を迎えた頃には多くこの地方の人々がその製作に携わり播州毛鈎は活気に溢れていたと聞いております。
富士印鮎毛鈎とは このようなルーツにより現在に至る小山毛鈎製作所の商標であります。
(株)大陸書房の『鮎のドブ釣り』を参考にさせていただきました。 |